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ひとつよが

イストリア半島のマリアおばあちゃん


夏休みのハイシーズン渋滞がなければ車で約6時間 550km。


ドイツからオーストリア、スロベニアの国境を越えた先。


クロアチアの北東部に位置するアドリア海に突き出る三角の半島。

イストリア半島。


アドリア海の向こう側はイタリア。


クロアチア。


その歴史はあまりにも複雑すぎる。

支配、独立、内戦、紛争の繰り返し。


東ローマ帝国、オスマン帝国、オーストリア・ハンガリー帝国

ユーゴスラビア王国、クロアチア独立国を経て

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に。


1991年クロアチア独立宣言。

つい30年前のこと。


私たちの年代ではユーゴスラビアの国名に馴染みがある。


独立後もクロアチア紛争は1995年まで続く。


イストリア半島はイタリアやドイツによる支配を受けた時代も。




半島南端部プーラの街に残るローマ遺跡の円形劇場。


 

吸い込まれそうな青い空とその青を映すかのような蒼い海。


アドリア海の海岸は砂浜がなく岩場だった。




なだらかな丘陵に広がるオリーブ畑と葡萄畑。

半島の中央辺りに位置するトリュフの産地として知られる Motovun モトヴン。

丘の上の小さな古城の街。



時間が止まってしまったかのような小さな村。

Grožnjan グロズニャン



半島は低い丘陵が連なりオリーブや葡萄畑に囲まれた赤い瓦と石煉瓦作りの街並。

乾いた空気と南国の陽射し。

木陰は涼しい。


気候が近いことや、古くは中世ローマ時代、そして第一次大戦後のイタリア王国併合時代の名残りからどこかイタリア・トスカーナの景色を彷彿とさせられる。


食文化もワイン、オリーブオイル、パスタ、ピザ、サラミやチーズなどイタリア料理も多い。


一方で半島の東海岸にある Opatija オパティヤの丘の斜面には

オーストリア帝国時代に建てられた優雅なリゾートホテルや瀟洒な建物が

海を臨むように立ち並ぶ。


もちろん、食文化的にはシュニッツェルがスタイルを変えて継承されている。


オプティヤの海岸沿いの風景。

ビーチはコンクリートで整備されたものが多い。

ここも欧州各地からの観光客でいっぱい。




時代とともに自然消滅してしまった小さな村の遺跡。Dvigrad ruins.


滞在した街、ポレチにある世界遺産。

ビザンツ帝国時代の6世紀に建設された『エウフラシウス聖堂』




半島西海岸の港町 Rovinj ロビニの旧市街



その温暖な気候とアドリア海の青さを求めて

欧州各地からの(特にドイツ!笑)から観光客が押し寄せる。

夏休みには通常の10倍にも人口が膨らむらしい。

(滞在中のWiFiの繋がりにくいことときたら!www)



ポレチの旧市街地。

夜は予約なしにレストランの席を確保するのが難しい。


 

旅行客の主な滞在先はリゾートホテルよりも

むしろアパートメントと呼ばれる一般住宅。

SOBEと呼ばれるB&Bのような宿も多い。


至れり尽くせりのホテルサービスや眺め良い立派な立地条件ではないけれど

キッチン、リビング、寝室、バスルームなどが揃った普通の住宅物件。

キッチン用品も掃除道具も備えられている。


その土地に暮らすように、むしろ広々とのんびりと過ごせるのが魅力。

我が家が滞在したのも1LDK+1ベッドルーム、シャワールームにテラス付きのアパートメント。市場やスーパーで地元産の新鮮な食材や特産品を買うのも楽しい。

オンラインクラスもこちらのテラスから配信しました。


 

そこで出会ったのが

アパートメントの向かいに住む83歳のマリアおばあちゃん。



ちょっとした事件(アパートメントのバスルームの水漏れ騒ぎ 笑)が起きた時。

英語が得意でない大家さんが通訳代わりにマリアおばあちゃんを呼んだのだ。


底抜けに明るく元気なマリアおばあちゃん。

下着のような(所謂シュミーズというのかな?懐かしい!)一枚で

2階ののベランダから家の前の大木に渡された洗濯紐の滑車を回しては

毎朝洗濯ものを干していた。


私たちが出かける時はベランダから大きな声で話しかけてくれる。

「今日は暑いけれど南から雷雲が近づいているよ」


まるで映画に出てきそうな路地裏のおばあちゃんそのもの。


 

マリアおばあちゃん。


若い頃にオーストラリアに移民として渡り

今も子供たちはみんなオーストラリアに住んでいるのだという。

英語もどこかオーストラリア訛りなのはそのせい。


クロアチアの独立後、老いた母親の介護をするために母国に戻り

そのまま暮らしているということだった。


ある日、マリアおばあちゃんの大きな声が聞こえる。

今度はイタリア語だ。

アパートメントの他の部屋にやってきたイタリア人家族と

楽しそうに話している。


そうか。

生まれ育った頃、この土地ではイタリア語が話されていた時代だったのか。


想像の及ばぬ波乱の人生を歩んできたのだろう。


一通りのおしゃべり(ほぼマリアおばあちゃんが話すだけ 笑)が終えると

別れ際には何度も 'Thank you, Thank you, Thank you' と繰り返す。

本当に何度も何度も。

毎回毎回。


おしゃべりを聞くだけで、何をしてあげたわけではないのに。

お天気の話、おばあちゃんお勧めのレストランやビーチまでの近道とか。


その「サンキュー」は私たちに向けてではなく

もっと大きな大きな何かに向けられているのだと感じた。


今日まで無事生きてきたことに対する

感謝の念のようなもの。


自然と口から零れ落ちるように繰り返される。


 

街なかでもクロアチア語とイタリア語、英語、ドイツ語の4か国語を話す人もいた。

スーパーやレストランでも客に合わせて言葉を次から次へと巧みにスイッチする。


生きてきた中で身についた人もいれば

生き抜くために学んだ人もいるのだろう。




途中ではたと気がついた。


リゾート地や観光地のレストランでは挨拶代わりに大抵聞かれる。


「どこから来たの?」


「日本だよ」


「そうかそうか、日本には友達がいるよ」

「東京に行ったことがあるよ」


なんてたわいの楽しい会話が始まる。


ところが今回はたったの一度も問われることがなかった。

(大家さんからもマリアおばあちゃんからも聞かれなかった。)



ついこの前まで混乱や紛争が続いていた国では


どこで生まれて

どこで育って

どこで暮らしたか


そんなことをひとりひとりが話し始めたら

きりがない。


きりはない。

けれど

ココロの傷がある。


同じ家族ですらバラバラになり

今なお再会出来ていない家族もあるかもしれない。


 

2004年まで記憶が遡る。


ドイツの語学学校で出会った先生のこと。

ユーゴスラビア出身の70歳を過ぎたカール先生。


ドイツ語は母語のひとつだった。


そう言えばユーゴスラビアのどの国の出身だったのだろう?

当時はあまり気にすることもなく過ごしてしまった。

今はどうしているのだろう。


クラスメイトだった20代後半の女性。

クラス初日の自己紹介。

ボスニア・ヘルツェゴビナ(旧ユーゴスラビア)の出身と言った後。

ドイツに来た理由を聞かれた瞬間、彼女は机にひれ伏して泣き出してしまった。


 

当たり前のように思えて

決して当たり前でない毎日。


平和な時代の平和な国で生まれ育った私には

想像できない日々を過ごし生き抜いている人がたくさんいる。


屋根の下で暮らし

充分な水で喉が潤い

余るほどの食べもの

語り合う仲間や家族がいて

安全な場所で朝と夜を迎えられる日々


今この瞬間も

見えない力によって与えられ守られている命は奇跡そのもの


マリアおばあちゃんの口から繰り返し聞こえた

サンキューサンキューという声が


言葉の意味を超えて脳裏に響き続ける

 

アドリア海の穏やかな波は光を湛えながら揺らめき


オリーブの木の葉は乾いた風を受けてたなびく


少し先に収穫を待つ葡萄はゆっくりと実りを垂れ始めていた


赤茶色の肥沃な大地にギラギラと夏の陽射しが注いでいた



なだらかな丘陵とその裾に広がる大地


目まぐるしく変化してきた人間の行いを営みを


ただただ黙って見守り続け


今もそこに佇んでいる




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